STORY

“関西の迎賓館”と呼ばれた二つのホテル。

※当記事は冊子『The ROYAL』2014年秋号でご紹介した内容です。

創業80周年記念特集
創業80周年を迎える現リーガロイヤルホテル。

長い伝統の中で受け継がれてきたその源流は、“関西の迎賓館”と呼ばれた二つのホテルにありました。

大阪・街・文化を独自の視点で考察し続ける編集者の江 弘毅さんが、その二つの歴史を紐解いた先に見えてきたものとは・・・。

(文/江 弘毅)

新大阪ホテル since 1935

地上8階・地下2階建て。客室は2~8階で211 室(シングル136室・二人室59 室・スイート11 室・和室5室)。関西初の国際ホテルであった。写真は開業した1935(昭和10)年、ホテル南東側から撮影した姿。左は当時のパンフレット。※大阪大学総合学術博物館館長・橋爪節也氏個人蔵

 1925(大正14)年、「『大大阪だいおおさか』に近代的なホテルを」という声から、政財界の有力者がこぞって参画する大阪あげてのプロジェクトが起動した。それが1935(昭和10)年に開業し、“関西の迎賓館”と称された新大阪ホテルの建設プロジェクトだった。

 堂島河畔に優雅にそびえ、人々が晴れがましく見上げたベネチアンゴシック式の豪奢な外観。新聞が「日本一ずくめ」と讃えたように、当時最先端の施設設備を整えたこの新大阪ホテルは、大阪の人々の思いが実った「街の誇り」であっただろう。

 その流れを受けて、1965(昭和40)年、中之島に誕生したのが大阪ロイヤルホテル、現在のリーガロイヤルホテルである。

 日本建築の大家で文化勲章受章の吉田五十八よしだいそやらによる意匠設計は、大島絣に見られる十字絣模様にアレンジされたタイル張りのホテル外壁をはじめ、文化価値の高い美術品が惜しげもなく飾られた空間など、さながらホテルそのものが一つのアート作品のようであった。この大阪ロイヤルホテルもまた、世界各国からの国賓級のゲストを迎える“迎賓館”として、名称を変えつつも現在に至るまで、長く愛され続けている。

大阪ロイヤルホテル since 1965

堂島川の南の、現在のリーガロイヤルホテル敷地の一角に開業。高松宮妃殿下による会館式のテープカット風景。キャッチフレーズは“世界に通う夢と味”。本格的な欧風料理をはじめ、「ここにしかない味」を求めた食通たちが、4つのバーと7つのレストランにこぞって押し寄せた。
堂島川から(左)と、東からの全景。開業時の大阪ロイヤルホテルは、現在のウエストウイングにあたる。

―新大阪ホテル New Osaka Hotel―

「大大阪」の「新大阪ホテル」、初代支配人が語るその興隆。

 新大阪ホテルは、1931(昭和6)年に起工、1935(昭和10)年に開業している。大阪が東京を凌ぐ「大大阪」として栄華を謳歌していた時期である。

 開業前年に初代支配人として就任したのが郡司 茂氏である。郡司氏は1923(大正12)年帝国ホテルに入社。1928(昭和3)年に、後に「ホテル王」と称される犬丸徹三支配人の命令で欧米に留学するなど、日本のホテルマンの先駆者として活躍する。東京の帝国ホテルから新大阪ホテルに支配人として送り込まれた郡司氏は、1966(昭和41)年に社長に就任。1973(昭和48)年ロイヤルホテル新館開業と入れ替わるかたちで営業を終了するまで社長を務めた。

 その郡司氏が1976(昭和51)年に「新大阪ホテルの歴史を描いてみたい」と著した『運鈍根うんどんこん』(毎日新聞社刊)は、この類まれなラグジュアリーホテルの様子をさすがにリアルに描いている。

 「当時、八階建て、高さ百尺のホテルといえば、大阪で一頭地を抜く超高層ビルであった」「信じ難いようであるが、世界広しといえども客室に冷房のあるホテルは、まだ一つもなかったのである」

 といった最先端の設備にして、「開業一年後の昭和十一年、宿泊者数で東京の帝国ホテルを抜いて、全国一位に躍り出た」とその興隆を語る。

 しかしながらそれも、氏が語るように「ボーイ、ウエイター、ウエイトレスは、各人がすべてホテルの代表者である。こういう形は、他の業種にはあまりない」「ホテルの品位は、言葉をかえていえば、従業員の教養と接客への訓練がその重点をなすもの」とする信条こそがあってのことだ。

近代的ホテル建設という夢に向かう「大大阪」あげてのプロジェクトだった

1934(昭和9)年1月に撮影した建設中の新大阪ホテル。完成前からの、当時の人々の興奮が想像できるようだ。
1935(昭和10)年1月10日、新大阪ホテル開業披露宴には、政財界などから約1400人の招待客が集まった。

新大阪ホテルの、寛容なラグジュアリー。

 この新大阪ホテルは「建材や調度品に損得を度外視して作り上げたホテル」だった。20代前半の若かりし頃、このホテルに勤務したことがあるホテルサービスの指導者でありジャーナリストだった的場光旦氏は、雑誌『大阪人』などでこのように書いている。

 「梅原龍三郎や小磯良平の作品、凄みのあるアンティークボヘミアングラスなどにビクともしない崇美なホテルだった。だのに客はそんなことは気にも留めない。当然迎える人間も並の神経マインドでは錚々そうそうたる客に相対あいたいできない」

 とくにバーマーブルについては、「独逸ドイツ人が英国のダイスゲーム『カメルーン』をやっている。その頃には珍しく内外装の殆どが伊太利イタリア大理石で、バーテンダーはランチタイムのドライドン(シェリー酒の銘柄)の客が来るまでにオリーヴオイルで磨き上げていた」と浮き世離れした雰囲気を描写している。そして38年8カ月の歴史を閉じた「8月31日、閉館の深夜[バーマーブル]で飲む。大理石の陰に重なるシーバスの金ラベルを眺めながら、真正のラストオーダーで550円也のベーコンエッグサンドを頬張った」と書く。

 映画よりも映画的な光景である。

1973 年8月15日の「ニュー・キャッスル」の伝票。オニオングラタンスープ500 円などの文字が見える(右)。新大阪ホテル最後の日のラストオーダーとなった「バーマーブル」の伝票にはベーコンエッグサンド550 円也とある(左)。※的場光旦氏提供
日米国際水上競技大会プログラムの表紙(右)。背面(左)の新大阪ホテルの広告から、アメリカ水泳選手団が宿泊したことがわかる。

華やかな「大大阪」の象徴ともなった

 「わが大阪、日本、東洋の誇り」と称された最先端の設備。

山崎豊子の代表作『白い巨塔』や、司馬遼太郎の小説『ひとびとの跫音』。

石原裕次郎の映画『憎いあンちくしょう』にも登場する、崇美なホテル空間。

ロビー
大宴会場
グリル。いずれの空間もが、「大阪に見られなかった豪華さ」と評判を呼んだ。
「重厚にして洗練の佇まい」と賞賛された、新大阪ホテルの客室。当時の平均客室料金は8円50 銭(地下鉄梅田-難波は10 銭)。

さまざまな時代を乗り越えて・・・。

1945(昭和20) 年9月から約7年間は、米進駐軍将校宿舎として接収され、新大阪ホテル玄関には、英文の看板が掲げられた。
1946(昭和21) 年5月、1階の特別食堂にはアイゼンハワー元帥(後の第34 代米大統領)一行の姿も。

「民芸」の名匠が集結して誕生した
―大阪ロイヤルホテル Osaka Royal Hotel―

「歴史の積み重ねが熟成する「そこだけ」の空気感。

 大阪ロイヤルホテルを前身にもつリーガロイヤルホテルは、まことに「見どころ」の多いホテルである。それは館内のあちらこちらに飾り付けられたり置かれたりしている美術品にとどまらない。

 まずロビーに立つと目に入るのが、平安時代を思わせる鳥柄をモチーフにした金蒔絵きんまきえの柱だ。そしてその奥のラウンジには雲がたなびくような金蒔絵の柱が並び、すぐ横を微妙なカーブを描いた小川が流れている。「曲水」である。小川は屋外の日本庭園につながり滝壺に流れ落ちる。吉田五十八よしだいそやの設計デザインによる、はるかいにしえの「雅」の現代流再現なのだと感じる。

自然との融合と伝統美。
流れのある池を配した日本庭園をはじめ、
随所に散りばめられた、伝統的な和の意匠。
こだわりが生む、ここにしかない希有な光景。

紫雲しうんのシャンデリア、金蒔絵の柱、水の回廊が圧倒的な世界観を構築するメインラウンジ。大きなガラス窓の奥には日本庭園が広がっている。
メインラウンジ壁面の「源氏物語絵巻」。江戸時代中期に土佐派の画家によって制作されたもので、源氏物語五十四帖のうち十二帖を描いた金地極彩色の華麗な作品。このような文化財級の芸術作品が惜しげもなく飾られている。
日本民芸最高峰の作家たちが集結。
リーチの自由奔放な発想が、英国カッテージ風の意匠へと仕上げられた「リーチバー」。日常生活に用いるものの中にこそ本来の美の力がある、との思想が息づいた、「純朴な粋」の独創的な空間だ。
ウィンザー調の椅子や家具、古い煉瓦、太い籐蓆を斜めに組んだ壁。床に敷かれたペルシャ絨毯が、空間を見事に調和させている。

「リーチバー」は日本で最も居心地がいいバーだと思う。ナラ材の床に静かに響く靴音すらいとおしい。このバーは当時の社長山本為三郎が、英国人陶芸家バーナード・リーチに「君の記念碑のかわりにひとつ部屋をつくるからやらないか」と設計をすすめたという。だからホテル内にあってほとんど独立した「部屋」になっている。柳 宗悦やなぎそうえつ河井 寛次郎かわいかんじろう濱田庄司はまだしょうじ棟方 志功むなかたしこうといった「民芸」の名匠たちの手による独特の空間で、バーとしては他に類を見ない。

 シティ・ホテルは商業空間に違いないが、デパートやファッション・ビルなどの単なる消費の場ではない。とくに歴史の積み重ねによる、そのホテルだけの代替不可能な空気感は、大いなる魅力である。

1966(昭和41) 年11 月、リーチバー店内で当時のホテル支配人・有森(右)と対談するバーナード・リーチ。
河井寛次郎の「大皿」。
リーチバー開業当時の銅板製メニュー。

ロイヤルホテルで飲む酒はなぜ、おいしいのだろうか。

 ホテルの中の店。具体的には飲食店やブティックなのだろうが、何が街場のショップと違うのだろうか。

 たとえば同じ銘柄の同じスコッチなのに、「リーチバー」で飲むとなぜうまいと感じるのだろうか。

 それは人の味覚というものは変容するからなのだろう。すぐれた空間デザインやプロのサービスといったものを付加価値などととらえてしまうと、そこのところがわからない。「おいしい」や「楽しい」は計量不可能で数値化できない。同様に人間の身体は情報化されたスペックではないのだ。だからこそおいしいものをよりおいしく感じたりする。

 人の味覚や気持ちを変容させる空間とサービスは、魔法のような装置となりえる。それは特別な時間を演出することなのであろうか、そうではなく過ごし馴染んだ寛ぎの時間を熟成させることなのだろうか。いや、そのどちらもであって、それらの合接点こそがいいホテルが醸す時空感覚とするならば、「変わらないまま変わり続ける」ことこそが、いいホテルの一つの姿なのであろう。

国内外のVIPをお迎えして。

APECなどの国際会議の舞台ともなり、 国内外の貴賓に愛されてきた“関西の迎賓館”。

大阪ロイヤルホテル時代から、このホテルは多くのVIPたちを迎えてきた。スタッフが胸に期したことの一つは、「最後までNOを言わずにお応えすること」という。その“ロイヤルイズム”は、リーガロイヤルホテルにも脈々と流れている。

【 VIPご宿泊の記録より 】

1966(昭和41)年4月22日 昭和天皇、皇后両陛下
1967(昭和42)年10月24日 クリスチーナ スウェーデン王女
1978(昭和53)年10月28日 鄧小平 中国副首相ご夫妻
1981(昭和56)年9月3日 カーター米前大統領
1983(昭和58)年4月8日 ムバラク大統領 
※呼称は当時 

History ~80年の歩み~

1997(平成9)年

◆4月
リーガロイヤルホテル(旧:ロイヤルホテル)、
リーガグランドホテル(旧:大阪グランドホテル)、
リーガロイヤルホテル京都(旧:京都グランドホテル)、
リーガ中之島イン(旧:中之島イン)にホテル名称変更

2000(平成12)年

◆4月
リーガロイヤルホテル(大阪)西隣に府立大阪国際会議場(グランキューブ大阪)開場

2002(平成14)年

◆4月
リーガロイヤルホテル東京(旧:リーガロイヤルホテル早稲田)に名称変更

2003(平成15)年

◆8月
犬専用ペットホテル「ドッグホテルガーディアンズ」開店
◆12月
中之島周辺を光で彩るイルミネーションイベント「OSAKA光のルネサンス」第1回開催

2004(平成16)年

◆4月
「日本料理&バー星宙ほしぞら」開店(30階 旧「ロイヤルスカイラウンジ」の業態変更)
◆11月
中之島4丁目に国立国際美術館が移転、新館グランドオープン

2006(平成18)年

◆2月
第15回BELCA(ベルカ)賞ロングライフ部門受賞
◆3月
「中国料理 皇家龍鳳」開店
◆4月
「ザ・ナチュラルコンフォートタワーズ」改装完了

2007(平成19)年

◆4月
ホテル業界初の全国宅配サービスである家庭料理宅配「ベース21」新事業展開
◆5月
高級チョコレート専門店「ショコラブティック レクラ」開店
◆7月
メインロビー(現タワーウイング)開業以来初めての改装

2008(平成20)年

◆3月
リーガグランドホテル営業終了

2011(平成23)年

◆8月
「オールデイダイニング リモネ」開店
ウエディングのためのフロア「ザ・クリスタルウイング」完成

2012(平成24)年

◆1月
創業77周年を迎える。
新スローガン導入「Pride of OSAKA-大阪が誇れるホテルであり続けること -」
◆6月
リーガロイヤルグラン沖縄開業

2013(平成25)年

◆3月
「日本料理 なかのしま」開店

2015(平成27)年

◆3月
「日本料理 なかのしま」開店

◆1月
創業80周年を迎える

※当記事は冊子『The ROYAL』2014年秋号でご紹介した内容です。
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