STORY

手塚治虫氏、殺人的スケジュールの合間を縫ってロイヤルで講演。

※当記事は冊子『The ROYAL』2012年5・6月号でご紹介した内容です。

あの日あの時、中之島で

1986(昭和61)年4月の出来事

松谷 孝征さん(手塚プロダクション代表取締役)

ⓒ手塚プロダクション
1945(昭和20)年8月15日、大阪で終戦を迎えた手塚氏の自伝的作品「紙の砦」より。「どついたれ」「ゴッドファーザーの息子」など大阪を舞台にした手塚漫画は多い。

 「当時、雑誌と新聞で連載が10本はあったかな。編集者からは大ブーイングですよ、〝何で大阪に行くんだ〟って」

 松谷孝征たかゆきさんは26年前を振り返る。

 当時、手塚治虫氏と行動を共にすることが多かったがこの時は一緒ではない。

 「締切直前でしたが、手塚は〝向こうで全部描くから〟ってアシスタントも何人か連れて行ったと思います(笑)」

 手塚氏と羽田に向かうクルマの助手席に同乗した、少年チャンピオン(秋田書店)「ミッドナイト」の連載担当・松永晋氏(現・幻冬舎コミックス営業・出版本部長)は、後部座席で一心不乱に描く手塚氏から下描き原稿を1枚ずつ受け取っては指定用紙にネーム(コマ割りに台詞せりふが書かれたもの)を写していた。

 「当時は台詞が写植でした。ペン入れの間に写植が上がる予定ですが、先生は変更も多くて(笑)」(松永氏)

 伊丹空港に到着した手塚治虫氏と後乗りのアシスタント数名がロイヤルホテル(当時)で合流。手塚氏の客室と隣室とで原画を次々と仕上げていった。

 明けて4月22日、作業を続けるアシスタントを残し、手塚氏は満員のファンが待つエコール ド ロイヤル特別教室へ。

 「綱渡りの日程でしたが、手塚は大阪が好きなので、行きたくてしょうがなかったんですね」(松谷氏)

 「創造のロマンを追う」と題された講演会では、まず完成したばかりのアニメ『おんぼろフィルム』(第1回国際アニメーション映画祭グランプリ受賞)が上演され、その後で講演が始まった。要旨は著書『ガラスの地球を救え』(光文社知恵の森文庫)に詳しいが母校の大阪大学医学部を堂島川の対岸に望む(当時)中之島で、手塚氏は束の間の休息と懐かしさに浸っていたことだろう。

 「自然への畏怖をなくし、傲慢になった人類には必ずしっぺ返しが来ると思います」(手塚治虫『ガラスの地球を救え』より)との言葉どおり、その9年後に阪神大震災、25年後には東日本大震災が起こる。手塚治虫氏は講演の3年後、60歳で生涯を終えるが、彼のメッセージは今も文明に警鐘を鳴らし続けている。

1986年の手塚治虫氏とロイヤル文化講演会

手塚治虫氏(1928-1989)は1986(昭和61)年当時、本文の「ミッドナイト」(少年チャンピオン)や「陽だまりの樹」(ビッグコミック)、「火の鳥 太陽編」(野性時代)をはじめ、新聞・雑誌に約10本の漫画・エッセイの連載を抱え、合間にアニメーションを制作し、企業のキャラクターを描き、審査員を引き受け講演をこなす…という日々で、「ミッドナイト」も校了日を1日過ぎた4月25日の入稿だったという。

 ロイヤル文化講演会はこの当時、黒柳徹子、森繁久弥、高峰秀子、坂東玉三郎…と錚々たる講師が登壇していて、この手塚治虫氏をはじめ、あっという間に前売券が売り切れる人気コンテンツだった。

(文/中島 淳)

※当記事は冊子『The ROYAL』2012年5・6月号でご紹介した内容です。
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