旅先やホテル滞在中に読みたい書籍を、さまざまな方の視点から紹介する連載。 Vol.3 選書:有栖川 有栖さん(作家)
「小説家にはなりたくてなったからそれは幸せだけれども、書きたいことがありすぎて、本を読む時間が少なくなるのが困りもの」と話す有栖川有栖さんにとって、ホテル滞在は貴重な読書タイム。旅に出る前にタイプが異なる3冊をチョイスするのがルーティンになっている有栖川さんに“ホテルで読みたい一冊”を聞いた。
出版社のパーティやイベントに参加する時にホテルを利用するのですが、決められている予定が済めば後は客室でゆっくりできる。そんな時は、夏場ならプロ野球中継を見ます。野球がシーズンオフの時は本を読んで過ごします。
私は本がないと窒息するタイプ。読書家と呼べるほど立派なものではありませんが、お菓子を食べるのが止まらないぐらいの感覚で本を読みます。 旅にはだいたい3冊の本を持っていきます。スルスル読める系のエッセイやどこからでも読める短編集、面白いことが分かっている日本の作家さんの作品がメインです。それらを選ぶ時間も楽しみ。
スタートダッシュをかける目的で、なかなか読み始められない評論や長編の海外ミステリーを持ち込むこともあります。
今回選んだ1冊はイタリアの作家、ディーノ・ブッツァーティの『神を見た犬』(光文社古典新訳文庫)です。この本を薦める理由は読者を選ばない短編集であること。今は謎解きする気分じゃないとか、人のロマンスに興味がない、そんな方にも向きます。日常を抜け出したホテルという空間でちょっと非日常な物語を読めば、まさに非日常の現実感が味わえると思います。
作者のブッツァーティの代表作は『タタール人の砂漠』という長編ですが、面白い短編をたくさん書いていて、最近いくつもの作品集が手に取れるようになっています。旅先で立ち寄った書店にも並んでいそうだという点も選んだ理由の一つです。
この短編集に納められている作品で私が好きなのは、気分によっても変わりますが、海の男達が恐れる生き物の話「コロンブレ」、ある男の入院生活を描いた「七階」、題名からは想像できないほどロマンティックな「護送大隊襲撃」、不思議な軍事作戦を描いた「戦艦《死(トート)》」など。どの作品の読み心地も、他の作家の作品ではなかなか味わえないものです。
「世にも奇妙な物語」的だったりもするのですが、少し手ざわりは異なります。エンターテイメントとして楽しめるのはもちろん、もうワンフロア上にあるような小説。ブッツァーティは共感を強く求めたり、生きる上でのヒントや勇気をくれたりはしません。舞台もコロコロ変わるのですが、どれも奇想天外で、よくこんなことを思いつくなと。小説を読む喜びを感じさせてくれます。
生まれたばかりの赤ちゃんは泣くだけでオムツも変えてもらえるしミルクも与えられる、いわば全能の存在ですが、成長するにつれて不条理を知ります。その事実を最初に理解した瞬間は覚えていないかもしれないけれどもショックを受けたはず。私の感想ですが、ブッツァーティは「そんな風に人生は思うようには行かないけれども、その“どうしようもなさ”の輪郭を私は知っている。こう表現してみた」のではないでしょうか。
実はこの1冊を選んだ理由はもう一つあります。「グランドホテルの廊下」という7ページほどの小品が所収されているからです。これはトイレのない客室に泊まった男が夜中に用を足したくなって廊下に出たものの、別の宿泊客と鉢合わせしそうになり、トイレを素通りしてしまい…というちょっとマンガチックなお話で、ホテルで読むのにうってつけ。イタリア人にもシャイなところがあるんだなと思える、ホッとする物語でもあります。
本人はあまり好ましく思っていなかったそうですが、ブッツァーティには「イタリアのカフカ」のレッテルがしばしば貼られます。けれども私が思うに、カフカがひんやり冷たく止まっている感じがするのに対し、ブッツァーティはカラフルで、時にはコントを見ているかのように情景が浮かんできます。 晩年、映像の魔術師と呼ばれた巨匠、フェデリコ・フェリーニから脚本の執筆を持ちかけられ、執筆が進められていたようですが、ブッツァーティの死により未完に終わっています。完成していたらぜひ観たかったですね。
『神を見た犬』
20 世紀のイタリア文学界で「幻想文学の奇才」と称された、ディーノ・ブッツァーティ(1906~1972)の代表的短編集。由緒ある家に生まれたブッツァーティは、大学を卒業すると有力新聞社に入社。作家としての地位を確立後もジャーナリストの仕事も生涯にわたって続けた。本作には、突然現れた謎の犬におびえる人々を描く表題作のほか、老いた山賊の首領が一人で戦いを挑む「護送大隊襲撃」、傑作と謳われる「戦艦《死》」など、全22 篇。
有栖川 有栖(ありすがわ ありす)
1959 年、大阪府大阪市生まれ。同志社大学卒業。11 歳で推理作家を志す。書店勤務を経 て、1989 年『月光ゲーム Y の悲劇’88』でデビュー。ロジカルな謎解きを得意とすること から「日本のエラリー・クイーン」とも呼ばれている。2022 年、第 26 回日本ミステリー 文学大賞を受賞。『双頭の悪魔』をはじめ、多くの作品が映像化されている。