「賓客のための近代的ホテルを大阪に」。大阪政財界の要望を受け、「大大阪」を象徴するプロジェクトとして1935年にリーガロイヤルホテルの前身となる新大阪ホテルが誕生しました。以来、時代の変遷とともに常に進化し続け、伝統を築き上げてきたリーガロイヤルホテルの90年の歴史を辿ります。
堂島川と土佐堀川の間に建つ新大阪ホテルは、ベネチアンゴシック式の豪奢な外観で“大阪の迎賓館”の名にふさわしい国際ホテルだった。
1935(昭和10)年、リーガロイヤルホテルの前身となる新大阪ホテルが、どのようの経緯で誕生したのか、その歴史を紐解くには明治維新以後の大阪のホテル史に遡ります。
大阪におけるホテルの歴史は自由亭から始まります。自由亭(開業当初は「良林亭」)は、1863(文久3)年にオランダ総領事の調理師・草野くさの丈じょう吉きちが長崎で開業した日本最初の西洋料理店です。薩摩藩の御家中であった五代才助(友厚)や三菱財閥創始者の岩崎いわさき弥太郎やたろう、後に大阪府知事となる後藤象二郎などに愛用されました。
明治維新後、当時の大阪には外国人のためのホテルがなかったため、大阪府知事の後藤と外国官権判事兼大阪府権判事となった五代が草野に命じて、西区の「川口居留地」に隣接した梅本町(現在の西区本田1丁目)に大阪初の西洋料理店兼ホテルの「外国人止宿所・自由亭」が設置されることとなりました。(1) この「外国人止宿所・自由亭」から大阪のホテル史がスタートします。国内外の賓客をもてなす場を任された草野は、1881(明治14)年に現在の大阪市立東洋陶磁美術館の場所に「自由亭ホテル」を開業します。
中之島公園には「自由亭跡」として大阪市顕彰史跡のパネルが設置されている。
1895(明治28)年には自由亭ホテルの洋館部分を改装し、大阪ホテルと名称を変更します。その後、経営者の交代により大阪ホテルは大阪クラブホテルとなり、電燈とスチーム暖房を完備し、英語を話す従業員もいる、大阪で唯一外国人が宿泊できる設備を持ったホテルでした。しかし、1901(明治34)年と1924(大正13)年の二度による火災で全焼してしまいます。ホテルが建っていた場所は、すでに大阪市が所有する中之島公園となっていたため、再建許可がおりず閉館となります。その後、支店であった今橋ホテルを大阪ホテルと改名して営業を続けますが、中之島の大阪ホテルのような賓客のためのホテルではありませんでした。
明治後期、「堂島川」の対岸から望む「大阪ホテル」。
完成の約1年前、1934(昭和6)年1月に撮影した建設中の新大阪ホテル。
1925(大正14)年には、大阪は人口211万人規模となり東京市の200万人をしのぐ日本一の大都市「大大阪」となりました。新大阪ホテル開業の1935年以前の大阪におけるホテルは、1934年鉄道省発行の『観光地と洋式ホテル』によると、大阪ホテル(旧・今橋ホテル)、堂ビルホテル、梅田ホテルの僅か3軒184室であったようで、質量ともに足りていない状況でした。(2) また、3年後の1928(昭和3)年には大阪で大博覧会開催計画が持ち上がっていたので、それに合わせて「大阪に賓客を迎えるための迎賓館」として、当時の関せき一はじめ大阪市長を筆頭に、大阪商業会議所(後の大阪商工会議所)を中心として近代ホテル建設推進の声があがりました。1926(大正15)年に第1回新ホテル相談会が開催され、その後、大博覧会の計画は中止となりましたが、ホテル建設実行委員会は1928(昭和3)年5月までに11回を数え、ホテルの概要や経営の試算などが徐々に具体化していきます。“大阪の迎賓館”と称され、常に政財界の有力者がこぞって参画する大阪をあげてのプロジェクトとなっていったのです。
1935(昭和10)年1月10日、新大阪ホテル開業披露宴には、政財界などから約1400人の招待客が集まった。
新大阪ホテル竣工式の関市長。新大阪ホテル建設は関市長の悲願でもあった。
開業当日のホテル経営陣。写真の後ろには、現在リーガロイヤルホテル(大阪)のイーストウイング3階にあるタペストリー「オランダ船」(川島織物製)が飾られている。
1930(昭和5)年、関市長から柴田善三郎府知事を経由して大蔵省預金部へ低利資金貸し下げの申請書が提出され、350万円(現在の価格価値に換算すると約20億円)の融資(後に60万円追加)が決定されました。また、ホテル用地は、それまで大阪駅前などが候補にあがっていましたが、大阪市北区中之島3丁目の東神倉庫の土地(現在の中之島フェスティバルタワー・ウエストの西隣)に決定。翌年の1931(昭和6)年10月、ホテル名を「新大阪ホテル」に決め、新会社発起人には大阪財界の名士ら14人が名を連ねました。
新大阪ホテルは1934(昭和9)年12月に完成し、翌1935(昭和10)年1月10日に竣工披露の宴を迎えることとなりました。
(新大阪ホテルの全貌は近日公開予定の「ROYAL HISTORY vol.2」へ)
〈参考文献〉
(1)・髙田 宏(大阪学院大学教授)徳江順一郎(東洋大学准教授)「大阪のホテル史~歴史的な迎賓館ホテルを中心として」日本国際観光学会論文集(第30号)2023年
(2)・髙田 宏(大阪学院大学教授)徳江順一郎(東洋大学准教授)「大阪のホテル史~歴史的な迎賓館ホテルを中心として」日本国際観光学会論文集(第30号)2023年
・『観光地と洋式ホテル』(鉄道省発行)1934年
(文・道田惠理子 / 140B)
1935(昭和10)年の地図。開業当初の新大阪ホテルが「ランドマーク」として登場している(1935年『大大阪市街地圖:最新』 / 国際日本文化研究センター所蔵)。
(年表)
1868(明治元)年 梅本町(現在の西区)に西洋料理店兼ホテルとして「外国人止宿所・自由亭」が開業。
1881(明治14)年 中之島公園に自由亭ホテル開業
1895(明治28)年 自由亭ホテルの洋館部分を改装し大阪ホテルと名称変更
1899(明治32)年 大阪ホテルを大阪倶楽部に売却し、大阪クラブホテルと名称変更1901(明治34)年 大阪クラブホテルは火災で全焼
1903(明治36)年 再度、名称を大阪ホテルに戻して開業
1924(大正13)年 大阪ホテルは再度の火災により全焼。すでに市所有の公園となっていたため再建許可がおりず閉館。支店の今橋ホテルを大阪ホテルに改名し営業を続ける。
1935(昭和10)年 現リーガロイヤルホテルの前身である新大阪ホテル開業