1935年リーガロイヤルホテルの前身となる新大阪ホテルが誕生し、1965年には吉田五十八氏の意匠設計による大阪ロイヤルホテルが完成します。
その大阪ロイヤルホテル開業時にオープンした「リーチバー」は、今年60周年を迎えます。
60周年という節目に、冊子『The ROYAL』2016年夏号で掲載した「リーチバー50周年記念特集」をご紹介します。
1928(昭和3)年12 月竣工した三國荘。民藝運動に参加した作家たちにより制作された家具調度品が豊かに備えられた三國荘は、彼らにとって、初めて実際の暮らしまでも念頭に入れて形づくられた「民藝の原点」ともいえる仕事となった。
民藝とは、「民衆的工芸」を意味する造語で、柳やなぎ宗悦そうえつ、河井寬かわいかん次郎じろう、濱田はまだ庄司しょうじたちが中心となって、民藝(手仕事)の文化を失わぬよう、また民藝の美しさにも注目し、より豊かな生活には民藝を正しく守り育てることが大切だと訴求した活動です。
1928(昭和3)年、関西財界の中心人物であった山本爲やまもとため三郎さぶろう(後に大阪ロイヤルホテル[リーガロイヤルホテルの前身]創業時社長)を中心とした賛同者の支援を得て、柳らは東京・上野公園で催された「御大礼記念国産振興東京博覧会」にて展示館「民藝館」を披露。博覧会終了後、この建物が失われるのを惜しんだ山本は、建物や什器を私費で買い上げ、大阪・三国の自邸に移設。山本邸内に移築された民藝館は、その地名から新たに「三國荘」と呼ばれるようになりました。
河井寬次郎、濱田庄司、青田五良、黒田辰秋をはじめ、無名工人の生んだ作品などが見事に調和した三國荘の応接室。
それから約40年後、大阪ロイヤルホテル[1965(昭和40)年開業]の構想時のこと。社長に就任した山本は、ホテルの中に三國荘を意識した「部屋」づくりを着想。意匠設計を担当した日本建築の大家である吉田よしだ五十八いそやに相談し、その「民藝の部屋」づくりを依頼したのが、共に深く民藝を理解し、長く親交をあたためていた英国人陶芸家バーナード・リーチでした。
「三國荘」と「リーチバー」。山本を介してつながるこの二つの「民藝の部屋」の、根底に流れるものは何なのでしょうか。リーチバーに長く通う編集者の江こう弘ひろ毅きさんが、それらの背景を紐解いていくリーチバー50周年記念特集です。
バーナード・リーチの書簡 「今度建つ大阪のロイヤルホテルのために、山本爲三郎氏の依頼で、私は一つの室の設計を試みましたが、同氏からの希望があり、故・柳 宗悦を偲んで、室内には柳と縁の深かった河井寬次郎、濱田庄司、芹澤銈せりざわけい介すけ、棟方むなかた志し功こう、それに私自身の作品を加えて調和するように心がけました。日本では一般に洋家具、特に椅子の製作には、ややもすると身につかない点が目立つように思われますが、われわれは代々椅子生活をして来た上、私自身としても、既に80年近く同じ経験を繰返して来たのですから、この点からでも何かお役に立ちたく、お手伝いすることにいたしました」
リーチから山本への書簡 イギリスのセント・アイヴスからの書簡。山本の依頼で制作した作品を船便で送ったことをはじめ、大阪のホテル(おそらく大阪ロイヤルホテル建設の進み具合について)を気づかう内容などがローマ字で書かれている。山本が亡くなる約10カ月前に書かれたもので、リーチと生涯親しくしていた様子がうかがえる。
気がつけば長い間、リーガロイヤルホテルの「リーチバー」で、民藝運動の作品にふれていた。そこでは、美術品を「飾る」とか「展示する」といったニュアンスではなく、「置かれている」。そういう表現がしっくりくるのは、このバーがあまたのホテル内にある「ラウンジ・バー」とはまったく違った発想でつくられているからだ。
英国調と日本が融合した「室」。単なる商業空間であるバーでもなく、人目を引く内装などという観点を超えた、「用の美」を実現させた空間だと知ったのは、20年ぐらい前に初めて雑誌でこのバーの記事執筆のために取材したからだ。
「民藝の部屋」を生んだ4人の写真 リーチバーのエントランスすぐの席に腰掛けると、壁に掛けられた一葉の写真に気づく。左奥から、吉田五十八、バーナード・リーチ、山本爲三郎の顔が見える。後ろ姿は濱田庄司。リーチバー誕生以前に撮影されたもの。店内には、リーチバー開業を待たずして世を去った柳 宗悦を偲んで、柳の写真も掲示されている。
リーチバーに入る前から目に飛び込む河井寬次郎の大皿 民藝の同人による主な「会合」場所となったのは京都・東山の河井寬次郎宅だったそうだ。酒や煙草も愉しんだという河井の作品「呉須泥刷毛目(ごすどろはけめ)大皿」は、リーチバーの入口に立つとまっすぐ前に目に入り、このバーで過ごす時間を特別なものにしている。
このバーは20代の頃から頻繁に来ていて、酒飲みの友人たちとカウンターに陣取ったり、打ち合わせでよくテーブル席も使った。だからカウンター席のバックバーにぶら下がって並べられているジョッキや、太い籐が斜めに組まれた壁をバックにしておかれた陶器の皿や壺も見ていたが、芸術作品ではなく、何げなくそれに気づいて「おやっ」と受ける、その時の自分の「心象」のような存在だった。
バックバーに佇む、リーチと濱田の手によるマグカップと水差し カウンター席からバックバーをふと見上げると、素朴な表情の水差しとジョッキが、等間隔で12 個並んでいるのが目に入る。開業当時は実際に使用されることもあったそうだ。ぴかぴかに磨き上げられたボトルが生む心地よい緊張感と、どこか人の手の温もりを感じるジョッキや水差しが、リーチバーならではの独特な気配を創り出している。
柳 宗悦によると「民衆の生活用具のもつ美の性質と価値をありのままに述べたのが、民藝運動の始まりだった」とのことであり、「民藝とは無名工人の製品であって美術家たる作家の作品ではない」。その通り、わたしはリーチバーで、ものの見事に民藝の企図にはまったわけである。
磨き上げられた椅子や木の床、使い込まれた絨毯床に敷かれた絨毯は、リーチバーが開業してすぐの頃、「こんな高級な絨毯は壁に掛けておくものだ」とお客様から叱られたことがあるそうだ。芸術作品ではなく、美しいが実用という、民藝運動の「用の美」の発想から生まれたリーチバーを象徴するようなエピソード。椅子や床の質感も、長い時を経た美しさを放っている。
三國荘に戻されたおかげで戦禍を逃れたリーチの代表作 『スリップウェアペリカン図大皿』バーナード・リーチ作(1930)アサヒビール大山崎山荘美術館蔵スリップウェアは、18 世紀イギリスで隆盛を見るも淘汰されたものであったが、陶芸の研究を重ねたリーチは、民藝運動にも共通するように、忘れかけた技法を自身の作品に蘇らせた。本作は、山本爲三郎が東京に拠点を定める前後に、三國荘から渋谷区金王町にあった山本邸に移され、客間を飾っていた。その後、再度この大皿は三國荘に戻されたことによって、幸いなことに戦禍を逃れ、リーチの代表作として今に伝えられている。
柳 宗悦とバーナード・リーチによる『スリップウェアペリカン図大皿』の箱書きが残る。「彼の友人 宗悦」の文字にも、彼らの親交の深さが覗える。
われわれが民藝と接するにおいては、作者のプロフィールや作品として制作された経緯などは知らずともよいのである。けれどもわたしは、それらが発する独特の存在感にひかれるように、いつしか「三國荘」の存在に行き着いた。三國荘は山本爲三郎邸のなかにあって、山本氏と家族、民藝運動の具現者の実生活に息づく、つまり「それ自体が民藝にほかならぬ」理想の場所であった。
撮影 / 四方邦熈期間限定で復元された「三國荘」今は目にすることのできない三國荘だが、2015 年末から2016 年春、アサヒビール大山崎山荘美術館で開催された「山本爲三郎没後50年 三國荘」展で、期間限定でその姿が復元展示された。どこかリーチバーを彷彿させる印象を持つ空間。同展では山本爲三郎コレクションからも多くの民藝作品が出品された。
三國荘は戦後に山本の手を離れ、現在はアサヒビール大山崎山荘美術館でそれらに詳しくふれられるのみだ。同館から昨年末に上梓された冊子『三國荘―初期民藝運動と山本爲三郎』には、三國荘の台所の写真が掲載されていて、皿や急須がすぐ手に取れるよう、むき出しで棚に置かれているさまが覗える。民藝の作品は、日常の器であり道具なのだ。
三國荘の竣工から37年後の1965(昭和40)年、民藝の同人の顔ぶれを重複しながら実現したのがリーチバーである。
山本が「君の記念碑のかわりにひとつ部屋をつくるからやらないか」とリーチにすすめ、リーチも後に書簡で「わたしは一つの室の設計を試みましたが」と書いている。リーチは民藝作品を「室」に調和させることのみならず、日本では「身につかない点が目立つように思われる」椅子やテーブルにも大いに配慮し、名を冠する「一つの室」=リーチバーを実現した。
「用と美の分離がまったく気まぐれな事柄だということを、つねにおぼえておかねばならない。役には立つが美しくない陶器や、美しいが実用的でない陶器のあることは事実である。しかしこのような両極端は正常とは考えられない」と、リーチは『A Potter’s Book(陶工の本)』(1940年刊)で書いている。また松江や出しゅっ西さい(島根県)、小鹿田おんた(大分県)などの伝統的な作陶の里に足を延ばし、地元工人たちの窯で協働した。しばしば若手の陶工に、中世英国の陶作技術であるスリップウェアの製作指導を行った。
柳 宗悦の訳による『日本絵日記』(講談社学術文庫)の第九章「九州小鹿田にて」にはこう記されている。
「私が私を再び東洋に来させるに至った真の動機といったものが、いっそうはっきりと判った。それは、巣の中の無名の工人たちを見つけ出し、彼らとともに暮し働くことから、産業革命以来わたくしたちが失ってしまった総体性と謙虚さを学びとることである」
このようにリーチの作品には、東洋と西洋の融和が、リーチ自身の民藝運動のもうひとつの動機としてみられるのが特徴だ。英国人ゆえの、だれよりも射程の遠い民藝の地平が、日本へ注がれた数々のリーチの作品、そしてリーチバーの構想にも覗える。
文/江 弘毅(編集者・著述家)
(時期により作品が入れ替わります)
●三色打薬扁さんしきうちぐすりへん壺こ / 河井寬次郎作その名の通り三色の釉薬を太めの筆で器物に打ち付けた、河井の代表的な技法による作品。
●板画「道標の柵さく」/ 棟方志功作「柵」とは棟方独特の表現で、巡礼のお遍路さんが寺々に納めるお札のように、一つひとつの作品を、生涯のお札として納めていく、その想いをこの文字に込めたそう。
●陶板画「コンウォール海岸」 / バーナード・リーチ作コンウォール、中でもリーチ・ポタリーのあるセント・アイヴスは鰊の産地。そのためリーチバーの壁面のレンガはヘリンボーン柄に組んでいるのか、と想像を馳せる愉しさも。
●陶板画 / バーナード・リーチ作鳥や鹿、井戸などリーチ作品の中によく登場する主題が見られる。 「鳥の巣」「井戸」「きつね」「中国山木の図」「鹿」などの作品が並ぶ。
●ジョッキ / 濱田庄司作「京都で道を見つけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」と陶芸を語る人間国宝・濱田による美しいフォルム。
●藍織「沖縄風物」 / 芹澤銈介作
柳 宗悦と沖縄の伝統的な染色「紅型」に出合ったことで、独自の「型絵染」と呼ばれる世界を確立した作品。民藝の持つ豊かな安らぎを感じさせる
1887(明治20)年
バーナード・リーチ香港で誕生。日本に住む祖父に引き取られ、京都や彦根に住む。10歳の時、英国に帰国。21歳でロンドンの美術学校に入学。小泉八雲の著書を愛読し日本に憧れる。
1909(明治42)年
リーチ、来日。上野桜木町の自宅でエッチングの教授を始める。柳 宗悦と交流が始まる。
1912(大正元)年
リーチ、富本憲吉と共に六世 尾形おがた乾山けんざんに入門、楽焼を学ぶ。
1915(大正4)年
山本爲三郎とも親交のある関西の実業家加賀正太郎が、大山崎に建設中の山荘に夏目漱石夫妻を招待。
1917(大正6)年
リーチ、柳邸内に窯を築き、作陶を始める。
1920(大正9)年
リーチ、11年間の日本の生活に終わりを告げ、生涯の友となる濱田を伴って家族と共に帰英。コンウォールのセント・アイヴスに欧州初となる日本式登り窯を築く。
1924(大正13)年
帰国した濱田を京都の河井寬次郎邸に訪ねた柳、スリップウェアを見る。柳と河井の親交が始まる。
1925 (大正14)年
柳、河井、濱田と紀州への旅の途中、「民藝」の新語を造る。
1928(昭和3)年
御大礼記念国産振興東京博覧会(東京・上野)に「民藝館」を出品。博覧会終了後、民藝館を大阪・三国の山本邸内に移築し、「三國荘」とする。三國荘は初期民藝運動の拠点となる。
1934(昭和9)年
日本民藝協会設立。初代会長に、柳が就任。リーチ、14年ぶりに来日し、滞在中に益子の濱田、東京の富本、京都の河井、松江の船木の諸窯で制作を行う。翌年、帰英。
1935(昭和10)年
新大阪ホテル(現リーガロイヤルホテル(大阪)の前身)開業。
1936(昭和11)年
日本民藝館開館。初代館長に、柳が就任。
1948(昭和23)年
『月刊民藝』に代わり『日本民藝』発行。
1952(昭和27)年
柳の私有の土地、家屋、調度の一切を民藝館に寄贈。柳、リーチ、濱田が英国の国際工芸家会議に出席。
1953(昭和28)年
リーチ、米国を経て来日。日本各地を旅行し、益子、九谷、松江、小鹿田にて制作。リーチ、新大阪ホテルにも宿泊。
1954(昭和29)年
加賀正太郎、ニッカウヰスキーの事業を山本爲三郎に託す。
1955(昭和30)年
第1回民藝館茶会を催す。この頃「民藝」ブームが起こる。
1961(昭和36)年
5月、柳 宗悦、逝去。日本民藝館、二代目館長に濱田庄司が就任。リーチ、6度目の来日。
大阪大丸でリーチ・濱田回顧展を開催。
1963(昭和38)年
大阪ロイヤルホテル(現リーガロイヤルホテル(大阪))設立。山本、会長・社長に就任。リーチ、新ホテルのバーの構想を立てる。
1965(昭和40)年
大阪ロイヤルホテル開業。「リーチバー」開業。山本、翌年逝去(73歳)。
[参考文献:『日本民藝館手帳』監修/財団法人日本民藝館(ダイヤモンド社)など]
※当記事は冊子『The ROYAL』2016年夏号でご紹介した内容です。
リーガロイヤルホテル(大阪)
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