「賓客のための近代的ホテルを大阪に」。大阪政財界の要望を受け、「大大阪」を象徴するプロジェクトとして1935年にリーガロイヤルホテルの前身となる新大阪ホテルが誕生しました。以来、時代の変遷とともに常に進化し続け、伝統を築き上げてきたリーガロイヤルホテルの90年の歴史を辿ります。
開業時の新大阪ホテルパンフレット。ホテル概要のほか、冷暖房完備など、先進の設備が整っていることが記載されている。
新大阪ホテル開業日は1935(昭和10)年1月16日。堂島河畔に姿を現したのは、ベネチアンゴシック式の豪奢な外観で、敷地面積(道路敷地を含む)は4794㎡、地上8階・地下2階建て。客室は2~8階で211室(シングル136室・2人室59室、スイート11室、和室5室)を擁していました。前日までに外国からのお客様10人を含む200室の予約が完了し、幸先の良いスタートとなりました。ちなみに、開業当時の客室料金はシングル1泊5円からで、朝食は1円50銭でした。師範学校卒業直後の小学校教員の初任給が46円ほどの頃のことです。
「重厚にして洗練の佇まい」と賞賛された、新大阪ホテルの客室。当時の平均客室料金は8円50 銭。
初代支配人として就任したのが郡司ぐんじ 茂しげる氏。郡司氏は1923(大正12)年に帝国ホテルに入社。1928(昭和3)年に、後に「ホテル王」と称される犬丸 徹三支配人の命を受けて欧米に留学するなど、日本のホテリエの先駆者として活躍します。東京の帝国ホテルから新大阪ホテルに支配人として着任した郡司氏は、1966(昭和41)年に社長に就任します。1973(昭和48)年、新大阪ホテルがロイヤルホテル新館開業と入れ替わるかたちで営業を終了するまで社長を務めることとなります。
その郡司氏が1976(昭和51)年に「新大阪ホテルの歴史を描いてみたい」と著した『運うん鈍どん根こん』(毎日新聞社刊)は、この類まれなラグジュアリーホテルの様子をリアルに描いています。
「当時、八階建て、高さ百尺(約30m)※のホテルといえば、大阪で一頭地を抜く超高層ビルであった」
※( )は筆者注記
「信じ難いようであるが、世界広しといえども客室に冷房のあるホテルは、まだ一つもなかったのである」
当時は冷房のある客室は日本初のことで、その他にも客室にはベッドでの読書に便利なヘッドランプや全客室に浴室が設置され、先進の施設内容は人々を驚かせました。
ホテル従業員用マニュアルブック『サービスの栞』。帝国ホテル・犬丸徹三氏、新大阪ホテル初代支配人・郡司 茂氏の両名によって作成された。
また、サービス面でも日本一を目指したのは言うまでもありません。郡司氏は、従業員用マニュアルブック『サービスの栞』を作成し、心のこもったおもてなしに努めました。『運うん鈍どん根こん』では、「ボーイ、ウエイター、ウエイトレスは、各人がすべてホテルの代表者である。こういう形は、他の業種にはあまりない」「ホテルの品位は、言葉をかえていえば、従業員の教養と接客への訓練がその重点をなすもの」と記されています。
ロビー
大宴会場
グリル
当時の新聞記事のなかには「日本一ずくめ」と讃えたように、当時の最先端の施設設備を整えた新大阪ホテルは、開業1年後の1936(昭和11)年には宿泊滞在者数で東京の帝国ホテルを抜いて、全国1位に躍り出ます。
ホテル開業日の常食堂(メインダイニング)のメニュー。
新大阪ホテルは、開業当初から「本格的な西洋料理が食べられる」と食通たちの間で評判でした。常食堂と呼ばれたメインダイニングでは、前菜にフォワグラ、メインは牛フィレ肉のステーキと本格的なものでした。定食が2円、宴会料理が5円という当時としては高額にもかかわらず大宴会場の予約が絶えなかったといいます。食材も多彩で、ヤマドリやキジ、イノシシなどのジビエもよく使われました。
1945(昭和20)年9月から約7年間は、GHQ(米進駐軍将校)宿舎として接収され、新大阪ホテル玄関には、英文の看板が掲げられた。
新大阪ホテル接収時、1階の特別食堂にはアイゼンハワー元帥一行の姿も。
第二次世界大戦開戦以降、新大阪ホテルは海外からの来訪者はほとんど途絶え、宿泊者も軍関係者が中心となりました。レストランの材料の入手も困難で、米をはじめ全ての食材が配給制度によるものだったので、塩は工業用の粗塩を水で煮溶かして食塩に近づけたり、牛乳のかわりに大豆で豆乳をつくったりと苦労は絶えませんでした。1945(昭和20)年、開業10周年の祝賀の催しも行えず、同年3月と6月の大阪大空襲では現在の大阪市北区のほとんどが焦土と化しましたが、ホテルの建物は辛うじて残りました。
1945(昭和20)年に終戦を迎え、新大阪ホテルはGHQの米進駐軍将校宿舎として接収されることとなります。その7年後の1952(昭和27)年に接収が解除となり、2か月後に営業を再開することができました。
1952(昭和27)年8月22日、再開業時に揚げられたアドバルーンと新聞広告。
ホテル再開業時には、新聞に「再開業 接収解除」と広告を掲載し、アドバルーンも揚げられました。ホテルには、再開を待ち望んでいた多くの方が来泊され、従業員たちも以前にも増して心のこもったサービスでお迎えしました。新大阪ホテルは、再度、活気を取り戻すこととなったのです。
再開業の披露宴。
(文・道田惠理子 / 140B)